「する」と「される」のあいだで考える入門
鈴垣美影
中動態を、古代ギリシア語の文法用語としてだけでなく、行為・責任・習慣を読み直すための小さな道具として学ぶ入門書。能動と受動の二択でつまずく人が、日常例から順に理解できるように構成した。
Chapter 01
中動態は、いきなり哲学の大きな話として読むと迷子になる。最初は文法の道具として、「出来事と人の関係の見方」だと押さえるところから始めよう。
文法でいう「態」は、英語では voice と呼ばれる。ざっくり言うと、動詞が表す出来事と、その出来事にかかわる人や物との関係を、文の形にどう出すかという仕組みだ。
日常例で言えば、「猫が魚を食べた」と言うと、猫が行為の中心に置かれる。「魚が猫に食べられた」と言うと、魚が出来事を受けたものとして前に出る。同じ出来事でも、どちらを文の表側に出すかが変わる。
だから態は、出来事そのものを変える魔法ではない。出来事をどの向きから見るかを変えるレンズだ。
能動態は、ふつう「誰かが何かをする」という形で理解される。主体が行為を起こす側に見える。
受動態は、ふつう「誰か・何かが何かをされる」という形で理解される。主体が出来事の影響を受ける側に見える。
ここまでは分かりやすい。でも、現実の出来事はいつも「完全にする側」と「完全にされる側」にきれいに分かれるわけではない。そこに中動態を学ぶ入口がある。
中動態は、単純に「能動でも受動でもない三番目の箱」と覚えると危ない。言語によって中動態が表す範囲は違うし、古代ギリシア語の文法と現代日本語の感覚をそのまま重ねることもできない。
入門の段階では、「主体が出来事に参加し、その出来事の影響も自分に返ってくる見方」と考えるとよい。たとえば「身支度する」は、自分が動いているが、その結果として自分の状態も変わる。
くろだくん、ここ雑にすると後で全部ぼやける。中動態は『責任なし』の合言葉じゃない。まずは、行為と影響が同じ人の中で絡む見方だと覚えよ。
この本では、厳密な言語学の議論に入る前に、次の近似を使う。能動は「主体から外へ向かう行為」、受動は「外から主体へ来る影響」、中動は「主体が過程の中にいて、その過程にかかわりながら変わる見方」だ。
この近似は万能ではない。だが、初学者が中動態の勘所を掴むには役に立つ。厳密さは後で足せる。最初に必要なのは、能動/受動だけでは取りこぼす経験があると気づくことだ。
態 voice の基本説明は、文法一般の説明と類型論の文献を参照した。本文の日本語例は理解のための類推であり、日本語に古代ギリシア語と同じ形の中動態がある、という主張ではない。
Q1この章での「態」の説明にいちばん近いものはどれか。
Q2中動態を学ぶ入口として避けたい覚え方はどれか。
Chapter 02
中動態を理解する近道は、難しい古典語から入ることではない。まず、自分の毎日にある「動いているのに、同時に動かされてもいる」場面を見つけることだ。
「新しい仕事に慣れる」と言うとき、私たちは何もしていないわけではない。覚えようとするし、試すし、失敗して直す。
でも同時に、慣れは自分の意志だけで一瞬に作れるものでもない。時間、環境、身体の反応、周囲のリズムが少しずつ自分を変える。
ここには「私が慣れを作った」とも「私が完全に慣れさせられた」とも言いにくい感じがある。中動態のレンズは、この混ざり方を見やすくする。
「眠る」は、命令されてすぐ完全に実行できる行為ではない。眠ろうとはできる。明かりを消し、横になり、スマホを置くことはできる。
けれど、最後に眠りに落ちるところは、自分が完全に操作しているというより、眠りの過程に入っていく感じがある。
このような出来事では、主体は消えていない。むしろ主体は過程の中にいる。自分もかかわるが、過程にも包まれる。
ゲーム、SNS、学習、仕事、恋愛。何かに「ハマる」とき、自分で選んで始めた部分はたしかにある。
しかし、続けるうちに報酬、習慣、通知、周囲の期待、身体の疲れが絡み、自分の行動を押し返してくる。最初の一回と、百回目の反応は同じではない。
中動態のレンズは、「自分でやったのか、やらされたのか」という粗い質問を、もう少し細かい質問に変える。どの過程に入っていたのか。どこで自分が変わったのか。どこに介入の余地があったのか。
ここで挙げた日本語の例を、そのまま「日本語の中動態」と断定する必要はない。言語ごとの文法体系は違う。
大事なのは、能動/受動の二択では捉えにくい経験があると感じることだ。中動態は、その経験に名前を与えるための歴史ある手がかりになる。
Q1「眠る」が中動態の理解に向いている理由として、本文に近いものはどれか。
Q2この章の日本語例の扱いとして正しいものはどれか。
Chapter 03
中動態は、近年いきなり生まれた哲学用語ではない。古代ギリシア語などの文法で使われてきた、古い語法に関わる言葉だ。
古代ギリシア語の動詞には、能動・中動・受動という態の区別がある。ただし、現代語の教科書的な三分類のように、すべてがいつもきれいに分離しているわけではない。
時制や動詞によって、中動と受動の形が重なることもある。だから「中動態は必ずこの意味」と一行で覚えるより、どのような関係を表しやすかったかを見るほうがよい。
入門で覚えるなら、中動態はしばしば、主体自身に関わる行為、主体の利益のための行為、主体が巻き込まれる変化を表すのに使われた、と捉える。
たとえば「洗う」という行為は、誰かが何かを洗うなら能動的に見える。けれど「自分の体を洗う」「身を清める」のように、行為の結果が自分に返ってくるなら、中動的な感覚が出てくる。
同じように、身支度する、選ぶ、約束する、関わり始める、といった出来事では、主体は外から対象を押すだけではない。自分自身の状態、立場、関係も変わる。
古代ギリシア語の中動態は、このような「自分に返ってくる行為」を考える入口になる。
受動態では、主体は出来事の影響を受ける側として前に出る。「魚が食べられた」なら、魚が受けた変化が文の中心に来る。
中動態では、主体はただ影響を受けるだけではなく、その過程に関わっている。自分で動く。しかしその動きは、自分の状態や関係を変えていく。
だから中動態は、能動態と受動態の中間というより、主体と出来事が絡み合う場所を示すと考えると分かりやすい。
古代ギリシア語の中動態については、一般文法の説明と中動/中受動の概説を参照した。厳密な古典語学では、時制・相・動詞ごとの用法がさらに細かく論じられる。
Q1古代ギリシア語の中動態を入門的に説明するなら、どれが近いか。
Q2受動態と中動態の違いとして、この本の説明に近いものはどれか。
Chapter 04
文法の中動態が面白いのは、単なる活用表を超えて、「主体とは何か」を考える材料になるからだ。ここでよく参照されるのが、言語学者エミール・ベンヴェニストの読み方だ。
ベンヴェニストは、インド・ヨーロッパ語の古い態の対立を、単なる能動/受動の対立としてではなく、能動/中動の対立として捉える読み方を示した。
入門向けに言い換えると、能動では過程が主体の外へ向かって展開する。中動では、主体がその過程の内部にいる。つまり、主体は行為の外側から押すだけの点ではなく、行為が起こる場そのものに巻き込まれている。
この説明は、厳密な引用文としてではなく、学習のための言い換えとして押さえておこう。
たとえば「私は決めた」と言うと、完全に透明な意志が先にあって、そのあと行為が出てきたように見える。
しかし実際には、迷い、記憶、身体の疲れ、他人の言葉、場の空気、過去の習慣が決定の中に混ざる。決めたのは私だが、その私もまた過程の中で形づくられている。
中動態の発想は、こういう場面に強い。主体を消さずに、主体が過程に含まれていることを見せる。
私たちはしばしば、「自分で選んだのか」「強制されたのか」という二択で考える。これは法律や責任を考えるときに役立つ場面もある。
でも、すべての生活をその二択だけで切ると、習慣、依存、教育、関係、身体の変化を見落とす。自分が選んだ部分と、選べる自分が作られていく部分が同時にあるからだ。
中動態は、この二択を壊して終わりにするのではない。二択の手前にある過程を見えるようにする。
この章は、ベンヴェニストの能動/中動の議論を、初学者向けに意訳して紹介している。専門的には、印欧語の態の歴史、語彙ごとの用法、形態論の議論が関わる。
Q1この章で紹介したベンヴェニスト的な説明に近いものはどれか。
Q2中動態の発想が自由意志の議論に役立つ理由はどれか。
Chapter 05
中動態が日本で広く知られるきっかけの一つに、國分功一郎の『中動態の世界』がある。ここでは、その問題意識を初学者向けにほどいて読む。
中動態の話を聞くと、「じゃあ人は何も悪くないのか」と短絡したくなるかもしれない。だが、それは違う。
中動態のレンズがしてくれるのは、責任を消すことではない。「その人がどの過程に入り、どの条件に影響され、どこに選び直しの余地があったのか」を見ることだ。
つまり、責任をゼロか百かで断じる前に、行為を作った条件を分解する。これが大きい。
依存や強い習慣では、「自分で始めたのだから全部自己責任」と言うだけでは、次の一手が見えにくい。
一方で、「脳や環境のせいだから本人は何もしなくてよい」と言っても、回復や変化に向かう具体的な行動が消えてしまう。
中動態の見方では、本人の行為、身体の反応、環境、報酬の仕組み、人間関係を一つの過程として見る。すると、責める/許すだけでなく、どこを変えれば過程が変わるかを考えられる。
ふつう私たちは、意志を頭の中の小さな王様のように考えがちだ。王様が命令し、身体が従い、行為が出る、という絵だ。
でも実際の意志は、習慣、言葉、環境、身体、他人との関係に支えられている。意志は何もない場所から突然出てくるのではない。
だから「意志が弱い」とだけ言うより、「意志が働ける条件があったか」「別の反応が起こる環境を作れるか」と問うほうが、現実の改善につながる。
中動態のレンズを使うと、責任は単なる罰や非難だけではなくなる。責任とは、自分が入っている過程を知り、次に変えられる場所へ手を伸ばすことでもある。
たとえば夜にSNSを見続けてしまうなら、「自分はだめだ」と言うだけでは弱い。通知、寝る前の不安、充電場所、ベッドの位置、翌朝の予定を一緒に見る。
そのうえで、スマホを別室に置く、通知を切る、寝る前の不安を書き出す。こうした小さな介入は、意志だけで殴るよりずっと具体的だ。
國分功一郎『中動態の世界』は、意志と責任の考古学として中動態を読む代表的な日本語文献である。本章はその議論を、依存・習慣・責任を考えるための入門的なレンズとして要約した。
Q1中動態のレンズが責任の話でしてくれることはどれか。
Q2「意志は孤立した王様ではない」とは、どういう意味か。
Chapter 06
ここまでで、中動態は文法用語であり、同時に行為を読み直すレンズでもあると見てきた。最後に、実際に使える手順にまとめよう。
まず、出来事を一文で決めつけない。「彼がサボった」「私は失敗した」「あの人が怒った」のような短い文は便利だが、関係をかなり切り落としている。
中動態のレンズを使うときは、最初に状況を見る。時間、場所、疲れ、他人の言葉、制度、道具、過去の反復を並べる。
これは言い訳を探す作業ではない。出来事がどう生まれたかを、粗い非難より細かく見る作業だ。
次に、出来事を点ではなく流れとして見る。最初のきっかけ、反応、繰り返し、強化、疲労、結果を順に追う。
たとえば「勉強できなかった」なら、机に座れなかった瞬間だけを見るのではなく、前日の睡眠、通知、教材の難しさ、始める前の不安も見る。
過程を見ると、「自分が悪い」だけでも「環境が悪い」だけでも足りないことが見えてくる。
過程の中で、どこに小さな余地があったかを見る。大きな意志で全部を変えようとすると、たいてい失敗しやすい。
余地は小さくてよい。机に本を開いて置く。通知を二時間切る。最初の問題だけ解く。人に開始時刻を送る。
中動態的に考えるとは、自分を過程から切り離して命令することではない。過程の中にいる自分が動きやすくなるよう、配置を変えることだ。
最後に、責任を「誰が悪いか」だけで終わらせない。責任を、「次にどこへ手を入れるかを引き受けること」として言い換える。
謝るべき場面では謝る。損害があるなら回復する。約束を破ったなら、相手が困った事実をごまかさない。
そのうえで、同じ過程を繰り返さないための条件を変える。これが、中動態のレンズを使った現実的な責任の取り方だ。
次の文を中動態のレンズでほどいてみよう。「私はまた先延ばしした」。
状況は何か。過程はどう流れたか。どこに余地があったか。責任をどう言い換えられるか。
答えは一つではない。たとえば、教材が大きすぎた、開始時刻が曖昧だった、疲れていた、失敗したくなかった、という条件が見えるかもしれない。そこから、次は教材を一ページに分ける、開始時刻を固定する、最初の五分だけやる、といった介入点を作れる。
Q1中動態のレンズを使う最初の手順はどれか。
Q2この本での責任の言い換えに近いものはどれか。